大垣まつり、「菅原軕」と「松竹軕」の面白い関係。

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※新町「菅原軕」
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※伝馬町「松竹軕」

 新町の菅原軕は大正五年(1916年)に、船軕より改作した軕で、また伝馬町の松竹軕は昭和二十七年(1952年)に久瀬川町より購入した軕です。

 もとは新町の船軕は「小船軕」がその起源となります。屋形と舞台を併せ持ち、舞台では浄瑠璃による舞踏が演じられていたそうです。またこの軕は車輪が三つで、曳き歩く度ごとに、船が波に漂っているように上下に動く仕組みになっており、大垣の軕では異色であり誇りであったと記されています。その後は明治二十四年(1891年)の濃尾大震災により焼失。大正三年(1914年)に菅原軕が再建が決定するのですが、当初菅原軕の再建を手掛ける予定の大工は船町在住の『藤田由之助』であったが、新町在住の『竹長』(※八代目青木銕次)が、自分の町の事であるからと、破格の金額で造ると申し出たため『竹長』の手によって菅原軕は建造されたのです。
 一方、伝馬町の松竹軕は元々は芸軕ではなく能からくり軕でした。采振り人形は両手で采を持ち、下に向けて左右に振るという、現在の大垣の軕には無いタイプのものでした。昭和二十年(1945年)の空襲により焼失。昭和二十八年(1953年)に久瀬川町中組の芸軕「稲荷軕」を購入し、昭和三十七年(1962年)に垂井町の塗師『太田瑛二』氏によって塗装が施されたのです。
 
 そこで興味深い共通点ですが、当初菅原軕の再建を手掛けるはずの大工『藤田由之助』は、この久瀬川町中組の「稲荷軕」の製作者であるということです。明治四十一年建造のこの「稲荷軕」は、船町の「玉の井軕」を見本に製作しているため、その軕の構造は名古屋系の二層屋形の軕と、長浜系の歌舞伎の芸軕との混在型という大垣独自の特徴を示しているのです。

 藤田由之助は、当時はその名を馳せた名工だったのでしょう。いつの時代も腕の良い職人は人気であり、後世にも名を残しています。

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